CATEGORY:脱線話
2011年08月16日
彼の戦争は終わったのでしょうか、
一日過ぎてしまいましたが、昨日は終戦記念日でした。
今年は我が家の唯一生き残っていた戦争体験者が亡くなって新盆でしたので因縁を感じます。
(ウチの盆棚、普段の年はもう少し簡素です。)
享年99歳、大正生まれ。
あの戦争の全期間を戦場で過ごし、最後は満州でソ連に捕まりシベリアに4年抑留して帰ってきました。
頑固で寡黙な老人で普段は戦争については祖母にも語らなかったそうです。
大晦日など酒を飲んで上機嫌のときはシベリア体験を少し喋る事もありましたが、
それも滅多に無いことでした。
死ぬ前の数年間、ボケてきて警戒が緩んだのか、聞けばポツリポツリと喋る事もありましたが、
基本的には軍隊生活と戦闘の四方山話。所属・階級・作戦等については、
いつも「忘れた」の一言。
歴史好きで本まで書いた祖父の蔵書は多いのですが、歴史書は殆どが戦国時代前後の物ばかり、
経済関連の一部を除くと、昭和初期がすっぽり抜け落ちている印象です。
何に触れたくなくて、何を知りたく無かったのか、
(ご先祖様の揃い踏み!何人居るのか数えたことがありません(´▽`;)ゝごめん)
政治家でもあった祖父の親交は広かったようですが、戦友会のようなものには出なかったようで、
死後の整理でも案内や会報の類は一切出てきませんでした。
ただひとつ、金庫の奥に何処からか贈られたと思しき記章があったのみです。
一度、「なぜ戦争に行ったのか」と聞いてみたことがあります。
祖父は「世間がああなっては、一人で嫌だと言うわけにはいかなかった」と答えました。
「みんなが、“そうだから”戦争になってしまうんじゃないか?」と切り替えしたら、
「そうだ」と言っていたのを覚えています。
(毎年飾られるので御先祖様の中でも偉い人のようです。よく知りませんが(汗 )
戦争をするのは一体誰でしょうか? 政治家?軍人?
彼らは、善しに悪しきにつけ、愚かであれ賢かったとしても、
我々の為、犠牲者の為、国の為、となれば戦争を否定できない人達。
守る為に戦うことは出来ても、戦いを避ける為に困窮と屈辱に耐えろとはなかなか言えない存在。
独断専行に見えて、いつでも我々の追認と支援が必要なのだと思います。
今年で戦後66年だそうです。
失恋、離婚、失業、生活苦、親しい者の悲劇ですら、
66年もあれば秘密も苦しみも吐露できる日が来ると思うのです。
彼は結局、墓の下まで持って行ってしまいました。
私は愚直なリアリストで道徳的な善人でも無く、
「戦争はいけない」と単純素直に言うことすらできないのですが、
ですが、66年間も告白すら避け続けた祖父の苦悩には、
思わずゾッとするのです。
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2年前になくなった自分の祖父も、多くを語ってはくれませんでした。
いや、語ってもらえるきっかけを作らなかったのが
自分の失敗だったと思うのです。
決して歴史に残らない祖父の経験、感情。
それを知る方法は永久に失われてしまった。
それを思うと自分は「ゾッと」します。
恐ろしく無念なのです。
私も、<言えるような環境>をもっと作れば良かったのかもと思っています。
(いまさら遅いですが)
「100年後の予測」を読んだからというのもありますが、そのうち戦争はあると思うんです。
(非戦の気運も下がってきましたし)
そのときに、祖父の戦争体験を遂に知りえなかった私が、世間に流されるんじゃないかと思うとやはり怖いです。
遅まきながらお悔やみ申し上げます。
私の祖父は南方で戦死したため体験談を聞くことはありませんが、気性を伝え聞くに多分辛い話は子や孫には話さなかっただろうと思います。
口伝だけが伝える方法ではなく、その人の暮らしぶりからも見えるものはありますので虚空さんもお祖父様から戦争の何かを伝えられていると思います。
ありがとうございます。
よく、当時の責任者達が「これは墓場にまで持っていく」といって当時の事情を語らないまま故人になったり、
生き残りが「自分ひとり生きて帰ってきてしまった」と言って泣いている話を見聞きしますが、
ついぞ事情はわからないものの、そのような気配が祖父からもしました。
私が善人でないように、祖父も人には語れない経験と残滓の思いがあったのでしょう。
子供の頃は理解できませんでしたが、今は少しそんな人々の気持ちがわかる気がします。
そしてやはり、そのように追い詰められることに恐ろしさも感じるようになりました。